昭和47年5月29日 朝の御理解
                     中村良一
御神訓
一 今より何事にも方位は忌まず、わが教えの昔に帰れよ。



日柄方位といったような意味のことでしょうね、方位と言うのは。そういう、迷信的な事から離れて、ね。教えの昔、私共が、この世に生れ落ちると同時に、の、心に帰れという事なんですね。教えの昔に帰れと言うのは、今日は、そういう風に、私は、感じるです。ね。まるの裸で、一つ、この世に出て、いっちょ、うんと成功してやろうとか、儲け出してやろうなんかて、全然、思わんなり出てきておるという事です。だから、今日は、教えの昔という事は、そういう風な、ね。例えば、頂いていただきたい。いうならば、その、無心に帰ると言うこと。無心。
昨日は、心無い人という事でしたね。あれとは、だから、全然、反対が違うわけです。字は同じですけどね。無心というから。心無いと書いてありますけれども。心無い人という、あれとは違う。無心に帰る。私は、皆さんが、一生懸命、御祈念をなさっておられる。あの、御祈念も、あの、御祈念の時には、自分の我情我欲を、あぁじゃこうじゃと言うて、祈っておるけれどね。あの、大祓いなんかを奏上しておられる時には、先ず、皆さんが、無心の状態にある時だと思いますね。先唱なさる先生の、大祓いに着いて、一生懸命、天津祝詞、大祓いなど、大祓い、特に大祓いなんかが、こう、自分の、なんか、一つのリズムに乗って、こうあげられていく時ね、あぁいう時が、私は、神様へ向けられる、無心の心で向かっておる姿だと思うです。だから、やっぱり、どうでも、大祓いを覚えにゃいけんですよ、皆さん。ね。覚えようと思うたら、もう、本当に、一日二日で覚えます。その、参っておられる、土屋さんなんかは、あの、朝、ご飯炊く炊く、二日か三日で覚えてしもうたと言われるのです。覚えようと思うたら、覚えるです。
私は、昔の事を、繁雄さんから聞いてから、一心ちゃ、大したことじゃあるなと思ったことがあるです。やっぱり、確かにそうですよ。そしてね、ほんなら、大祓いをです。それは、ここで、一巻しかあげませんけれども、自分の気持ちが良い時には、もう、それこそ、三巻も五巻も、十巻も、上げてごらんなさい。いよいよ、心はね、澄み切って、もう、無心になれますよ。これがね、信心の根本なんです。
私が、今日、御理解十三節を引用して、聞いて頂きたいと言うのは、ね。神は、打ち向かう、倍力の徳を授けると仰るのは、そうにゃ、一生懸命、参ったという事だけじゃないです。ね。打ち向かうという事は。ほら、十年、毎日、日参りした。もう、何十年続けて参りよるという事だけが、あながち神様に向こうたという事じゃないです。神に向こうて、しかも、倍力の徳を頂くと言う。おかげを受けたという事なら、それで良いです。ほらもう、一生懸命、一ヶ月なら一ヶ月、日参りして、こげなおかげ頂いたという事は言えますけれど。ほんなら、その、うち向こうた倍力の徳を授けて下さるほどしのものはね、私は、この、無心に向かう姿にしか、倍力の徳と言うものは頂けないと思う。それは、誰だって、沢山な人が、金光様を唱え、天地金乃神様を唱えて、永年、信心してますけれども、ほんなら、おかげを受けとるけれども、お徳は受けてないちいう感じでしょうが。なぜかと言うと、ただ、我情我欲のために、向こうたというだけだからなんですよ。ね。だから、徳を受けたという人は、やはり、無心なんです。ね。いうなら、死んだ気です。一生懸命です。ね。そういう向かい方をするから、神様から、倍力の徳が、授けられるのだという事なんですね。ですから、今日の、この御神訓から、私は、今まで、色々に説いてきましたけれども、今よりは、何事にも、方位を忌まず、わが教えの昔に帰れという事が、まぁ、私は、教えの根本だと、その、教えを受けていこうとする者の根本精神なのだ、ね。いわゆる。それにはね、もう、今までの事の、迷信的なこととか、何とかという様な事じゃなくて、もう、教えの昔に帰る。自分が生まれた時の、あの姿に帰れ。我情もなからなければ、我欲もない、しかも、わがものとっては、糸一筋だって付けてはきてない、ね。いわゆる、赤裸々、真っ裸の姿なんです。ね。この、真っ裸の姿になって、祈る時ですね、私は、無心の祈りという事になるのではないかと思いますね。
昨日、竹葉会でございましたから、昨日、共励殿が、楽の稽古で使ってましたから、私の奥の間を使わせてもらいました。もう、ですから、静かに、まぁ、一生懸命、信心の共励がなされましたけれど。昨日、初めて、竹葉会におかげいただいた、もう、昔から信心してますけれど、竹葉会には初めてだったんです。それがその、親戚の家に、やらせて頂いたところが、ちょうどそこの、従兄弟になりますから、今から、竹葉会に行くとじゃから、あんたもおいでち。ところが、この頃、ご無礼しとるから、敷居が高いとか何とか言うて、そげなこと言わずに、お母さんの御霊は、ちゃっともう、あの、合楽の御霊殿に、それこそ、鎮まってござるとじゃけん、お母さんに会うと思って、出ておいでちいうてその、まぁ、引っ張ってきたと。そらまぁ、お参りさせて頂いて、まぁ良かったという訳なんです。それがその、一生懸命に、お母さんの、いわゆる、大きな、いわゆる、分限者の家に、縁に、ついとりますから、分限者であれば、分限者であるほど、その家の格式とか何とか、やっぱり、色々ある訳なんですよね。それにその、こう、馴染めない。もう、子供が二人、もう居りますから、四五年になりましょう、五年と言わんです、もう、六年ぐらいなりましょうね。まぁだ、椛目の時代でしたからね。その縁についた時に。そん時に、私があの、色紙に、もう、○○さん、あんたがね、あちらに行ったら、これで行くことばいて。女子青年の時分には、熱心に信心しておりましたから、あの、書いてあって、あの、四方拝と書いてあった。四方拝と言うのは、いわば、元日のことを、四方拝とこう言う訳ですけれども、四方拝と、もう、あんたの周囲のね、全部拝んで行くのばいて。また、全部の事柄を、今の言葉で言うとですね、今の合楽の言葉で言うと、御事柄として、拝みきっていくことよと言うて、こりゃまぁ、あんたの、一生、掛け守りじゃと言うて、四方拝と書いてあった。ところが親先生、もう、あれを、何時も自分の部屋に掛けておって、思うんですけれどね。この事は拝める、西のほうだけ拝めるばってん、東のほうは拝めんという事がね。もう、一杯て。特に、ほんなら、お母さんと仲良しになろうと思うて、一生懸命尽くして、尽くしてみるけれどもです。それが、全然、その、お母さんに伝わっていかないち言う訳なんです。それで、私がね、ね。お母さんと仲良うして貰わんならんから、可愛がって貰わんならんから、一生懸命尽くしよるけん、いかんたいち、私が、・・・。無心に尽くさんからよと言う意味の事を話したことでした。無条件なんです。可愛がってもらおうとか、こうだからじゃないのだと。ね。日頃、いわゆる、娘時代に頂いておった、いわゆる、あの、御教えをですね。いわゆる、無条件に尽くさなければ、と言って、まぁ、お話をしたことでございます。
どうぞ、皆さん、なるほど、この無心という事は、そのように、素晴らしい働きがあるという事が分かるでしょう。一生懸命に、御用をさせて貰っておる。ね。ちゃんと、そろばんもって、これこれだけの儲かりがあるから、一生懸命、頑張らにゃ、ね。そして、今度は、そろばん通りいかんと、がっかりする。一生懸命、尽くしておる事は、素晴らしいことだけれども。お母さんと仲良うして貰わんならん、可愛がって貰わんならんから、努めておるという様な事ではね、やっぱり、通じない。それこそ、無条件、いうならば、無心に、それを尽くすという事。ちょうど、皆さんが、大祓いを奏上しておる時には、もう、一生懸命に、あの一つのリズムと言うのがありますから、そのリズムに乗って、大祓いがあげられるように、ね。私共は、無心に、その、神様に向かう。だから、そういう心を、そのまま、自分の実生活の中に持って行くことのために、あの、私は、御祈念の稽古はさせてもらうんだと思うんですね。素晴らしいことなんですよ。そういう素晴らしいことを目指させて頂くという事は。ところが、今も、言うように、西のほうは拝めても、東のほうが拝めないと言う様な事に、直面するのでございます。お互いが。ね。
私は、今朝から、お夢を頂きよったが、色々今日は、お夢頂いておりましたが、もう、綺麗なもう、あれは、何と言うですかね。三吉というですかね。大きな梨がありましょうが。あの梨の、もう、見事に、ちょうど、博多帯のように、肌の綺麗な、それでいて、やっぱり、三吉という梨の感じですよ。それを、こんな素晴らしい紙でという様な、ね。紙でね、一つ一つ包んで、箱の中に、こうやって、収めているところを頂いた。そして、今朝の御理解を頂いて、ま、今日は、いわば、今まで、説いたことのないような説き方を、この、御神訓から、しておるわけなんです。梨という事は、無という事だと思いました。自分を空しゅうするという事。昨日の、心無いと言うのではなくて、無心という事だと思いました。
だから、私どもが、無心に、打ち向こうた時の、その心だけは、神ですね、神様の神。神が、大事に大事にしまっておって下さる。私は、それを、今日は感じてですね。こら、だから、時々でも良いから、無心にならなければいけないと思いますね。お互いの、実生活の中にですよ、ね。いわゆる、自分を空しゅうした姿で、人に接する、ことに接する、問題に接するという事。それはね、神様が、ちゃっと見ておいでなのですから。神様が、ちゃっと聞いておいでなのですから。それを聞き取ってくださる、それを、神が包んで、いちいち、お前の為に残しておってくださる。私のために、ちゃんと取っておって下さる。こりゃ、本当に無条件、ね。いわゆる、無心に、例えば、無心に眠るとか、ね。子供の寝姿なんか、無心に眠ってると、こう言うでしょう。そういう、無心にね、私共が、御用させて頂く。そういう意味で、私共は、心を神様に向けさせていただくと。全てのことを通して、心を神様にむけさせて頂くという事はです、ね。ま、無心に通ずるわけです。神様へ向かうという事は、教えに取り組むという事なんですよ。金光様、金光様て、唱えよるという意味じゃないですよ。ね。教えに取り組んで、一生懸命、それに精進しておる。その姿こそが、無心なんです。
もう一つ、お夢を頂いた。それはもう、はぁと、雪景色なんです。もう、素晴らしい景色なんです。そこでね、あの、中村吉右衛門兄弟が、あの、勧進帳のお芝居をやってるんですよ。もうあの、衣装を着けて、そしてその、雪景色の中ですから、たかぼっくりを履いてる。ここで、まぁ、修行生の方達がはいてるようなね。たかぼっくりを履いて、その、勧進帳の問答のところを、やってるんです。それがその、雪の中だもんですから、下駄に雪が、こう詰まってるわけです。それでその、下駄の雪を払いながら、こうやって、気張ってるところ。そしたらね、その、吉右衛門が、戸梶を努めてるんですね。それがね、ころっと転んだんです。そして、その周囲には、沢山な見物人が見てる訳なんですよね。そして、その、いわゆる、ひのき舞台といったようなところじゃないわけです。舞台じゃない、言うならば、そうした、自然の雪景色の中でその、いわゆる、歌舞伎十八番の、勧進帳がやっておるわけです。それを、沢山の人が取り巻いて見ておるわけです。それで、格好がおかしいものですから、わぁーわっと言って笑ってる所なんです。そのところを、今朝、お夢に頂いた。まぁ、色々、どういう事だっただろうかと思うて、なら、また、今日の御理解から、頂かせて貰うてから、ヒントを得たことですけれどもね。
私達は、信心を、こうやって、稽古をさせてもらう。色々と教えて頂く。その教えを行ずるとか、守るとかという事はね。場合には、ね。非常の場合がある。ね。非常識というですかね。金光様の信心しちゃるばっかり、もう、常識がないと言われる事があるです。それを私は、非常識とは言わずに、超常識だと言う風に申します。神様から粗末にしてからもう、人間関係のほうなんかは、お留守にしてしまうといった場合がありましょう。いうなら、義理も人情も知らん。いやまた、義理人情を考えよったら、信心は出来ん事が沢山あるとですよ。だから、義理や人情の世界じゃないです、信心の世界と言うのは。ね。例えば、隣近所の、本当に、お付き合いと言ったような場合でも、それを、無視しなければならない事があるです、金光様のご信心させて貰うと。一にも神様、二にも神様と言う生き方で、信心をさせて頂きよりますとね。
今日は、町内で、旅行がある。で、あんたも、いっつも来んきんで、しゃっち来なさい。いやぁ、それでも、私は、そげな、物見遊山なんかに行こうちは思わん。あんたが、そげん言うちから、こんからもう、みんなが乱れる、崩れる。こんだ、どうでんこうでん来て貰わんならん、と言われたと言うのですよ。だから、色々考えた末に、まぁ、嫁が信心がないから、ほんなら、嫁なっとん、代わり出そうと言うてから、出したと、これは、昨日、一昨日でしたかね、原さんのお届けなんです。もう、原さんがもう、神様ばっかり言うちから、もう、近所付合いもせんという風に言われてる訳なんですよね。もう、自分の心のなかには、もう、温泉にどん行ってから、そげん、物見遊山にどん行くという様な事なんか、もう、全然、問題じゃないわけなんです。原さんの場合は。ね。それが、しかも、こと神様と言う時には、もう、そげなこつなんか問題じゃない。そら、行かにゃ、行かん損なんですよね、言うならば、町内の費用で行くのですから。けども、そげなこつは、問題じゃないて。そんな場合が、もう、沢山出てまいりますね。それよりか、もっともっと、深刻な事が出てまいります。もう、金光様の信心ちゃち言うて、それこそ、笑われるような、その、今の勧進帳じゃありませんけれどね。それは、私共が、自然をバックにしておると。天地金乃神様をバックにしての生活なんだ、金光様のご信心と言うのは。ね。だから、もう、本当に、ここが頂けたら、もう、こんな素晴らしい生活はないのです。何はなんと言ったって、お商売をさせていただくでもですね。後ろにバックがあると、持っておるという事は、大変な強い事なんです。様に、神様がバックだ、自然がバックだ、もう、神様が私の後ろ盾なのだと言う、そのおかげがね、はっきりいただけるようになったら、こんなに強いことはないです。ちょうど、雪景色という事は、もう、一番辛い、寒い情景だろうと思いますよね、雪景色。
只今、修行の真っ最中といったような人達がです。そういう修行の中に、なら、勧進帳の稽古をやっているわけなんです。勧進帳と言うのは、皆さんも、ご承知のように、通れないところを通れるという筋なんです、あそこは。ね。普通だったら、絶対通すことも出来ない、通る事も出来ないと言うところをです、通らせて頂けれるという筋があの、勧進帳なんですよね。安宅関を、ね。戸梶が、ね。何もかににも、飲み込んで通してやると言う筋なんです。ははぁ、段々、今朝から頂いた御理解が、はっきりしてきた、今日の御理解を頂いて。なるほど、そうだなと。なるほど、梨を、一つ一つ綺麗に紙に包んで、こう、仕舞っておって下さったことも、なるほどそれに繋がってきた。なるほど、今よりは、何事にも、方位を忌まずと言う、もう、理屈を言うなと。そりゃ、人情でいや、義理で言えば、そうかも知れんけれども、そういう義理も人情も、一応捨てなさいと。親先生任せにならせて頂いたら、かえって、困った結果になったと。ね。それが、有難いのだと言う生き方なんです。ね。そういう心で打ち向かう時にです。神は、向こう倍力の徳を授けると。そういう信心、無心の状態。自分というものを、あげん言うたら、あの人が悪口を言うだろう。あげん言うたら、あの人達が笑うだろう。そういう事は、もう、空しゅうして、そういうことは、問題ではないとして、神様一途に向こうていくという。それが無心なんだ。ね。だから、ほんなら、心無い人は、それを笑うだろう。それを悪口を言うだろう。けれども、人間から、笑われても、神様から、笑われちゃならんという生き方なんです。そういう生き方をもって、神に向かうところに、初めて、倍力の徳と言うのは、受けられるのだという事。ただ、一生懸命、参ったから、拝んだから、徳を受けると言うことじゃないて。今日のご理解頂くと、そういう事になるのです。ね。
今、合楽で、皆さんの場合はです、ね。まぁその、雪景色とまでは行かんでもです。ね。勧進帳の、いうならば、いよいよ、檜舞台に立った時、いよいよ、本当の舞台に立った時にです。ね。それこそ、大向こうをうならせるほどしの、見事な演技が出来ることのために、皆さんは、今、稽古をしておられる時だと。今は、倒れ転びしよるから。あぁ信心しよったっちゃ、あげん貧乏しよるじゃないの。信心しよったっちゃ、あげな事が起こったじゃないのと言うのはね。ちょうど、その、中村吉右衛門兄弟が、勧進帳、高ぼっくり履きながら、雪景色のなかでやってるもんだから、雪が、こう積もってる、下駄に。それで、ころっと転がる姿なんかは、もう、見よるもんが、みんなその、手を叩いて笑いよるとげな。だから、笑われて賢うなれ。叩かれて強うなれという事なのです。ね。皆さんの中にも、随分、それこそ、親戚、・・・。あれがもう、金光様にばっかり参ってという事になるだろう。ね。近所隣には、なるほど、不義理をしておる。借金な、一杯重なっておる、ね。けれども、そういう不義理はしておるけれどもです。やはり、神様のほうにだけは、一途に向こうて行こうと、こういうね。ね。そういう向かい方でなからなければ、倍力の徳は受けられないち言うのです。
私共でも、一生懸命、借金な、一杯持ちながら、やっぱり、一生懸命、お供えのほうだけは、一生懸命させて頂いておる。もう、それこそ、身の皮剥いで、ね。それを、借金払いのほうへ持っていきゃ、そら、向こうのほうは、合点してくれるですよね。そがしこ、借金が減るわけなんですよ。けれども、もう、それが事は、目を瞑らせて頂いて、ただ、一途に神様、神様である。だから、神様が、いよいよ、言うならば、借金払いをして下さるという事になったら、もう、あっという間でしたよ。私が、一生かかったっちゃ、借金払いは、その時代であったら、出来まいと思う借金が、ね。一年足らずで終わってしまいましたよ。それまでには、だから、随分、悪口も言われた、または笑われもした。だから、笑われちゃならんとか、悪口言われちゃならんからと言って、そっちのほうに構いよったら、何時までたっても、倍力の特になって来ないて。私が言いたいのは、徳を受けていただきたいという事なんだ。ね。だから、金光様のご信心は、義理人情じゃいかん。もう、それを超越したもの。本当にね、例えばその、いよいよ、舞台、いわゆる、いよいよ本番と言う時ですたい。ね。
例えば、昨日、私その、竹葉会、佐田さんも見えておられました。佐田さんの、まぁ、過去の信心から、こう話させて頂いて、もう本当に、まぁ、もう今は、反対になっとられるから言えれるんですけれども。お婆ちゃんにだけなら、もう、口に入れとるもんでも、こうやって、あの、食べさせたいごと、言うなら、可愛いわけです、年寄りが。ところが、どういうもんか、もうその、お爺ちゃんち言うのは、虫が好かんでもう、どげん努めよう、努めようと思っても、もう、こうもしてやろう、あぁもしてやろうと思ってもね。もう、お爺ちゃんの顔を見るともう、しゅうごつなかごつなってくる。やったものは、取り戻そうごつなってくる。まぁ、どうした事だ、と言うて、ほんなら、あちらのお爺ちゃんが、その、こう、鬼のごたる風な顔してござるかと言うと、そらもう、こえらしか、もう、実にまぁ、上品なお爺ちゃんでね。そして、私どんからみりゃ、優しかろうごたる。だからその、嫁さんの恵美子さんの顔だけには、もう、嫌で嫌でたまらんように見えたわけなんです。ね。
昨日からも、申しますようにね。それが、例えて言うと、鬼じゃか蛇じゃかに見えたわけだけれども、そこんところを、やはり、ね。主人を育てた親であると言うような。また、信心でいけばです。その、親に対して、一生懸命、いわゆる、それこそ、無条件に好きになろうという事に努めさせて頂いておったら、もう、今度はその、お爺ちゃんが、本当に、可愛らしゅうなって来て、そしてあの、休みにつきなさる前ごろから、もう、おかげを受けておられましたが、もう、本当に、お爺ちゃんが、恵美子さんを、嫁さんを拝みなさる。涙を流して拝みなさる。もしこれが、あの、好かんまま、お爺ちゃんが寝られたら、もう、本当に、まぁ、それこそ、早う、死なっしゃら良かがち言うごたる気持ちしか、起こらんのじゃないかと思う。もう、寝たっきりでありなさいますから。それをね、もう、いろいろと、お世話されることが、もう有難うして、有難うしてたまらんごとなってきた。いわゆる、鬼か蛇に見えた、その姿が、神の姿に見えてきたわけです。ね。
最近、ご兄弟達が、みんな、東京、日田辺りに嫁っておられる方達が、見えられたんですね。それに、例えば、ほんなら、自分のご主人の姉さん達ですから、その間に、あちらでは、改式という、大変な事があっとったです。もう、皆さん、心に心配をしておられたですね。もう、先祖代々の仏様でんなんでん、潰してから、ご仏壇でん、どこさんか、やってからという様な問題が起こりはせんかと、・・・。ところがもう、そのことには、これから先の、みんなが触れられなかった。そしてもう、その、有難い、有難い、雰囲気の中に、もう、とにかく、毎日、楽しゅう、今、過ごしてもらっておると言う事実がね。どうでしょうかね。いうならば、もうその、檜舞台でのその、踊っておられる姿が、あまりにも素晴らしいから、分からんものでも、拍手喝采しておるような姿じゃないでしょうか。ね。だから、問題は、やはり、おかげをいただかにゃならん、いや、頂き抜かねばいけないという事です。ね。嫌いで嫌いでたまらんのが、好きで、好きでたまらんというところまで、やらせて頂くと、それは嫌いなものでも、それこそ、神様の帰った姿であったと分からせていただく。ね。それには、無条件にです。好きになる稽古をされたという事です。ね。
そして言われる。本当に、あぁして休み疲れてから、これがもう、何年前の自分の心の状態であったら、お爺さんも、不幸せなら、それを、世話させてもらう嫁も不幸せだという事。現在では、いわゆる、お爺さんも幸せなら、私自身も幸せだという事。ね。無心に打ち向かううちに、徳を受けられた。力を得られた。ね。それが、本当の神様の姿に触れることが出来たという事になります。
「今より何事も方位は忌まず、わが教えの昔に帰れよ。」と、今日は、その事を、いわば、無心に帰れよと聞いていただきました。それは、私共が、生れた時、そのままの姿、ね。あぁしてやろう、こうしてやろうと言うような思いを捨てての、いわば、生き方になれよという事。御祈念をさせて頂く、いわゆる、大祓いの奏上をさせて頂く時に、はぁ、これが、無心だろうかと、ふっと気付かせて頂く時に、それを、思われるような時があろうと思う。私が、こっから、皆さんの御祈念振り見とってから、はぁ、無心の状態だなぁ、今、あの方達はと思う、ね。だから、いっちょ、大祓いも本気で覚えさせていただいて、本気で、自分で、一人ででもいい、静かに静かに、大祓いでも、上げさせて頂く。はぁ、これが無心だと。こういう心で、自分の受け持ちの場でですたい。言うなら、御用させて貰うという事。または、色んな人間関係の場合にです、ね。
昨日の、竹葉会でのじゃないけど、お母さんと、仲良うしたいばっかりに、一生懸命に、努めても努めても、お母さんが、それを認めて下さらないと。それは、あんたが、条件があるからだという事。あんたが、無心で努めてごらん。お母さんに通じないはずは無いと、ね。無条件で努める。そういう事がです。日々のなかに、何回かぐらいはあるおかげを頂きたいと言うのです。自分を空しゅうして、自分を空しゅうして、言うなら、自分を犠牲に仕切って、縁の下の力持ちと言うが、ほんに、私ばっかりは、馬鹿らしか、縁の下の、何時も力持ちをしておらんならんという時には、無条件じゃない。ね。縁の下の力持ち、ね。それをです。いわば、無条件で、縁の下の力持ちをさせて頂くから、力が付くのです。ね。そういう時に、なら、自分が空しゅうなると言う事がです、ね。自分を、犠牲に仕切ってしまうと言う事がです。
現在の人の考え方から言うと、もう、それこそ、可笑しなことでしょう。人が笑うでしょう、けれども、笑われても、一遍、それを、本気で行じて見る事がです。如何に、自分を空しゅうするという事が、素晴らしいことかという事を、体験されることだと、私は信じます。ね。そういう、無条件の心で、仕事に取り組む。人との関係の上においても、無条件で奉仕する。ね。そういう生き方であるという事は、そのまま、神様へ向こうておる事ですから。そういう心で向かうときにです。神は、向こう倍力の徳を授けると仰るのは、そういう事ではなかろうか。
十三節、十三とは、ここでは、神の願いが成就する日と言われる。十三という日は、そんなに有難い日として、ここでは頂いておる。そういう心の状態に、私共がならせて頂く事が、そのままが、神の願いであると、私は思う。ね。神の願いに応えての日々、それが、私を、空しゅうした姿なのです。私の願いの為に、例えば、奉仕すると言うのは、もう、条件がある。私の願いの為に、信心の稽古をしておるというなら、おかげは受けても、何十年たっても、倍力の徳にはならないという事です。ね。言うなら、神様の願いを中心にしての、信心の稽古。これが、そのまま、倍力の徳を受ける、無条件の姿。ね。または、教えの昔に帰った姿という事になります。ね。
今、悪口言われておる人もありましょう。笑われておる人もありましょう。けれども、それは、いよいよ、本番、いよいよ、ひのき舞台に立たせて頂く時の為の稽古であると思わせて頂いて、ね。倒れても転んでも、人から、わーっと、笑われても、ね。そこにくじけず進めていかなければ、本当のおかげになってまいりませんね。どうぞ。